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                 Works

 

 

「 大学4年間の制作と経験 」

 私は大学では版画に没頭した日々を過ごした。毎日のように学校の工房へ通い、銅版を触った。作品を作り続け、いい作品を作れば周りは皆評価してくれた。頑張れば頑張るほど結果がついてきたし、作品もそこそこ売れたし、公募展で賞も取った。

私はこのまま版画家として版画を作り続けて生きていくんだと確信していた。

 しかし、大学4年の春、卒業制作を視野に入れ、最後の1年間の計画を立てている時に自分は何を作りたいのか、何を描きたいのか分からなくなってしまった。これまでの時間を振り返ると、版で表現出来る技法や技術の追求はしていたものの、それが表現することの探求に伴っていなかった事に気付いた。それまでの私の作品には「自分が版を通して何を言いたいのか」よりも、版表現の楽しさが先に見えてきてしまっていて、そこには薄く浅い表面だけ綺麗な偽りの自己しか残っていなかった。いつしか自分は 版表現の面白さや技法に頼ってしまっていた。今までやってきた事は表現ではなく版の技術、技法に入り浸ったただの 自己満足の結果だったのではないかと感じた。私はそれから「自己(表現)とは 何なのか」を問い詰め、悩み、考えた。だが、考えるほど分からなくなり、気付けばうつ病になっていた。

 その後、精神科に通い、うつ病の治療を行った。うつ病と診断されてから3週間ほど自宅に引きこもった のだが、その時に描いた作品が今後を大きく変えるきっかけとなった。そこに描かれていたのは、ただただ綺麗にまとめられた画面ではなく、私の内側から溢れ出す執念で描かれた自分自身の感情の筆跡そのものであった。今までの自分の作品にはなかった心の奥底から訴えかけてくる、私の中で埋もれていた情念のようなものを画面から感じた。

 この事がきっかけとなり、「表現とは本来何なのか」という問いを意識し始めた。それまで版画という表現媒体にこだわり作品を制作してきたが、それが返って自分を制限していたことに気付いた。版画で作品を作るにはどうしても技術が必要不可欠である。版表現は技術がコントロール出来た上でやっと自分の言いたい事が伝えられるため、技術の習得は必須であり、それが身につき始めた時、表現できる喜びを得た。

 

 しかし、それがただの手業になってしまうと版画を制作する上での大きな落とし穴に陥る。それは、作品を観照した時に表現よりも先に技術が見えてしまうことである。技術が表現よりも優先されてしまうのは、本来作品を作る上での根本的な部分を大きく見失ってしまっているのではないかと私は考える。作品というのは、作者の意図や思考を何らか の媒体の力を借りることで初めて表現に繫がる。つまり、版画で何かを表現したい時、技術から入るのではなく、表現したいものの為に技法を選ぶ事が本来の作品のあり方ではな いだろうか。私は版はあくまで手段であると考えるが、版画を制作する上でこれは自らがきちんと認識しないと意外と気付かない問題である。

 私はこの問題を意識した時、版表現の技法や技術を伏せた時に見えてくる「自分が作品で訴えたいこと」を率直に見る者に伝えるにはどうしたらいいかを考えた。そこで自分が描きたいテーマをもう一度定義し、答えを探すことにした。

「 “ 夢現郷 ” シリーズの誕生と経緯 」

 前述で述べた精神病の発症がきっかけで、私は自分の中に常に在る不安や恐怖といった感情を作品に投影 するようになった。それが今の「夢現郷(むげんきょう) 」シリーズである。夢現郷とは私が作った造語で「夢幻」「夢現つ(ゆめうつつ)」「桃源郷」の三語が合わさった言葉だ。「夢と現実の狭間に存在する曖昧な世界」という意味で、自身の精神病が引き起こす症状の一つである鮮明な「夢」や、幼少期に強く感じた不思議な感覚など、目に見えない感情や心の中に入り込んでくる実態を持たない感覚を具現化し、描き出した世界である。この世界に反映される見えないもの、 その一つが前述で語った精神病、「非定型うつ 病」と「レム睡眠障害」の症状から現れるものである。

 

 「非定型うつ病」とは“非定型”というだけあって従来のうつ病とは違った症状が出る。主には過食、過眠、気分の憂鬱の周期がうつ病とはまるで逆になるものである。うつ病は常にうつ状態で伏せがちな気分が続くのに対し、非定型は楽しい時は楽しい気分になり高揚感に包まれ、その反動でうつ状態が来る。友人と遊んでいる時などは普通に接する事が出来ているため、端から見れば至って健康そうに見えるため理解され難い。そのどうしようもないもどかしさに葛藤し、打ちのめされ、自己嫌悪に陥り、見えない心の痛みに恐怖し不安を抱く日々が続いた。この見えないもの(感情や心の痛み)こそ最大の恐怖ではないかと感じた。

 「レム睡眠障害」はその名の通り、睡眠中常に眠りが浅い状態が続く病気である。睡眠のほとんどが熟睡出来ない上にリアルな夢をよく見てしまう。その夢は現実ではありえないような内容ばかりなのだが、その世界では私は当たり前のように物事を受け入れ、生を全うしている。死にさらされる事だってある。現実か夢か区別がつかなくなる事もある。 私は夢と現実の間を行き来し、いつしかどちらの世界にも辿り着けず 暗い闇の中へ迷い込んでしまった気分だった。私にとって夢を見ることは恐怖でもあり、現実に一番近い所 にある幻想世界でもあると考えた。

 うつ病で味わった心の痛みや不安など、形のない見えないものに蝕まれた時の恐怖、レム睡眠障害で体感した幻想世界、それはどちらも私が生きていくのに辛いもので、いつだって隙を見せない。この不安感と恐怖は、体へ物理的に神経に届く痛みよりもよっぽど苦しく恐ろしいものだった。

 そして、私が具象的なモチーフを選んで描くのは、幼少期に体験した出来事が大きく関わっている。私は物心ついた時から「リアル」というものに非常に興味を持っていた。自然に恵まれた環境で育った事もあり、動物や昆虫、魚、植物などに触れる機会が多く、幼き日に見たそれは全てが新鮮で刺激的だった。自分の手で触れて感じる事で、そこに人間以外の奇妙な形をした生命体が確かに存在しているという事実に不思議な感覚を覚えた。自分とはかけ離れた形態感、 存在感、異様さを漂わせ、とても同じ空気を吸って存在しているものだと思えなかった。それはごく普通に、当たり前のように日常にありふれているものなのだろうが、 私にとっては非日常的な存在であり、そこにある確かなリアルは、当時は夢のような存在であった。

 これらの体験が元で私は、“恐怖”や“不安”などの形のない、目に見えない存在や感情に対して私の中で変換した具体 的な形態や物質を帯びたモチーフに置き換え、その姿や形を借りて“現実(リアル)”として描くことで、自分の中で蠢くやり場のない感情を作品に昇華した。そして、上記で述べた精神病に纏わる「夢と現 実」の体験、幼少期に体感した 「日常と非日常」を作品の主体にし、「対照的な時間の境に存在する曖昧 な世界」というテーマを掲げた。 私の中に “ 夢現郷 ” が誕生した瞬間である。 

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